そばは熱を嫌う──。
長年にわたり栽培する立場と打つ立場、そして食べる立場でそばを研究してきた柴田さんの結論だ。ひんやりとした空気が心地よい自宅の地下室に、のし板やガス設備を備え、この場所で不意の来客をもてなしたり新そばまつりの仕込みを行ったりする。
地下室でまず取り出したのは先祖から伝わるこね鉢だ。よく見かけるウレタンや漆を塗ったものとは様相が違う。焼き物で深さがありずっしり重い。「約120年前、山形から新得に入植した先祖が持ち込んだ鉢なんだ」。縁があって山形県河北町の資料館を訪問した際に、ほとんど同じ形状の展示物を発見し、それが河北町の歴史を示す『沢畑(さわばた)焼』の鉢であることを知る。
柴田家では祖母の代からこの鉢でそばをこねる。「お客が来ても米はない時代。そばでもてなすんだ」。祖母や母が打ち、父が茹で、子どもたちは近くの湧き水で洗う。もちろん、そこでつまみ食い。「いわゆる水そばだね。うまくてたまんなかったよ」。
25歳で結婚してからも家庭でそばを打つのは柴田さんの役目だ。テーブルをひっくり返してそばを打っていたが、やがて大工に頼んでのし板やのし棒を作ってもらい、札幌出張の際に麺切り包丁も手に入れた。その頃には「柴田のそばはうまい」と評判になっていた。
1972年、柴田さんは勤め先のJA新得町で農産販売係長に就任する。農家に対して営農指導を行い、馬鈴薯や小麦、野菜などの産物を売り歩く。新得町のそばも農業試験場や製粉工場、大学の研究機関などさまざまな場所へ持ち込んだ。すでに新得のそばは高評価を得ていたが、「もっと美味しくするにはどうしたらいいのか?」「もっと収量を上げるにはどうしたらいいのか?」と疑問が頭を過ぎるようになっていく。当時はそばの作付けに関する研究が少なかった時代で、疑問を解消するためにJA新得町の試験圃場で、関係者らと共に種を蒔き、収穫まで実践した。携わったみんなが「そば栽培の新得基準をつくろう」という気概を持ち、そばの栽培研究は10年間続いた。
そばの栽培は種を蒔いてから75日で収穫(手刈りの場合)となる。花が咲くまでは栄養と適度な温度が必要で、花から実になるには虫による受粉と栄養と寒さが必要だ。昼と夜の寒暖の差が旨みに反映することも解明した。台風の被害に遭わないように種を蒔く時期の調整、畑の大きさに応じた適切な種の量、窒素やリン酸、カリウムの投入量を調整する土づくり等々、考えられることを全て実践。「そばは比較的に連作が可能な作物。霜に強い品種ができれば二毛作だって可能じゃないか!って考えたこともありました」。
栽培手法だけではない。台風の被害から救うために共済制度の確立を国に働きかけるなど、農家がそばを栽培しやすい環境づくりにも奔走。また、美味しく食べるためのコツも追求していく。そうした辿り着いたのが、「そばは熱を嫌う」という結論だ。
玄そばやそば粉は湿気のない涼しい場所で保管する(柴田家では冷凍することもある)。
挽きは熱が加わりやすい機械よりも石臼挽きのほうが風味が良くなる。
こねるときは手の熱が伝わらないように手際よく。
茹でる鍋は大きく熱伝導に優れ一気に茹であげられるタイプ(柴田家では業務用ガスコンロと羽釜を使用)がベスト。
「だったら低温でそばを茹でられないかと思ってね」。自称そば博士と称する大学教授に相談したが、流石にその研究は叶えられぬまま現在に至っているそうだ。
今年で15回目を迎える『新そばまつり』は、石勝線開通20周年を祝い開催された2001年10月の記念イベントが発祥。当時の駅長から相談を受け、「駅前をそば横町にしたいね」とアイデアが膨らんでいった。「明治40年に狩勝トンネルが開通し、新得駅は道央と道東を結ぶ要の駅になりました。駅には立ち食いそばがあり、まちの中にもそば店が多く、汽車の待ち時間にそばを食べる。この頃から新得はそばのまちと言われてきたんです」。
栽培、食べ方、イベントなどそばにまつわる多方面で活躍中の柴田さんは、今回の『そば博』は絶好のチャンスと捉える。全国からそば好きが集い、新得のそばの美味しさを全国にPRできるからだ。しかし、一過性のイベントで終わらせてはいけない。将来的には新得町に道の駅を拡大したような施設をつくり、その中に『そばの屋台横町』を展開したいという野望を持つ。そのためには、そばの自給率アップや世界各国のそばの食べ方のリサーチ、島立てに変わるそばの乾燥技術の確立など、まだまだ研究したいことは尽きない。「口ではなんぼでも言えるからね」と豪快な笑顔が印象的だ。