新得産そばの特徴

そば里 in 十勝新得町

  • 歴史・風土
  • そば振興の取り組み
  • 品質の高さ
  • 新得のそばの歴史新得のそば 120年の歴史荒地でも育つソバは十勝の開拓期から入植者にとって欠かせない作物だった。「聞き書 北海道の食事」(農文協)の「道東十勝の食」には、開墾後の作付けについて「大木を切り倒した後の荒地には、まず、そばを播く」と当時の様子が記されている。新得町の和人による開拓は、1899年、山形県東根市出身の村山和十郎らの入植によって幕を開けた。「新得町百年史」には、前述のように開墾当初にそばをまきつけたことが書かれている。新得のそばの原点は開拓期にさかのぼり、120年近い歴史を持っている
  • A 山形県から入植した新得町開拓の租、村山和十郎B 手刈りによるソバの収穫作業。開拓期から新得ではこうした光景が普通だった。C 2002年に行われた第1回の「しんとく新そば祭り」のわんこそば大会。1回目の会場はJR新得駅北広場だった。D 第3回目の「しんとく新そば祭り」。来場者が初めて1万人を突破する1万5000人に上り、用意した駐車場が満杯となり、急きょ、陸上競技場などに駐車スペースを確保した播種からわずか2カ月余りで収穫ソバが重宝されたのは、痩せ地でも育つ上に種まきから2か月余りで収穫でき、連作に強く、除草など管理作業を必要としない―などの利点があるためだ。半面、ソバを連作すると、土地がやせるため、農地の整備が進むと、他の作物へ移行した。ただ、新得では、大正、昭和になってもソバの作付けは維持された。冷害となった1931年の町内のソバの作付面積は、1200ヘクタール、農作物の全体作付面積の4分の1に上った。32年の作付けは872ヘクタールと管内他町村をはるかにしのぎ、「開花期には一面がそばの白い花によって見事な景観を見せていた」(「新得町百年史」)というふるさとのそばを継承する先祖が村山和十郎らとともに山形県から入植した柴田信昭さん(71)=元新得農協参事=は、山形県がそばの産地だったことが今につながったとみる。「そば打ちは、祖母らの仕事で、年越しそばの他、客人が来るとそばでもてなした」(柴田さん)。望郷の強い思いに駆られる入植者の心の奥底にそばは深く根を下ろしていた。ソバを取り巻く状況は1975年に入ってから大きく変わる。十勝管内では、49年のソバの作付面積は6550ヘクタールあったが77年には952ヘクタールまで減少、現在は684ヘクタール(平成26年)にとどまる。小麦への作付け奨励金の交付でソバが小麦へシフトしたことや、安価な海外産ソバの輸入増が要因とみられる駅そばで知名度上げるこうした逆風の中、新得は、国鉄時代の駅そばで知名度を上げ、1974年には製粉、製麺を一貫して行う「新得物産」(当時新得そば)が設立され、「新得そば」のブランド化に成功した。2001年の石勝線開通20周年を記念したそばのイベントをきっかけに翌年からスタートした「しんとく新そば祭り」の効果は大きかった。毎回、新そばを楽しみに2万人が来場し、新得のそばが口コミで広がった。15回目を迎えた16年は日本そば博覧会と併催し、福島、茨城、山形のそばどころからも出店し、イベントとして規模、内容ともに発展させた。また、町内の生産者らが全国そば優良生産表彰(日本蕎麦協会主催)をこれまで4回受賞し、ソバの産地として名実ともに有名になった。そばによる地域づくりを促進新得のソバの作付けは現在も263ヘクタール(2014年)と十勝ではトップの座を維持しているが、3000ヘクタールを超える全国一の産地、上川管内幌加内町には及ばない。ただ、新得は、昔からソバの品質の高さで評価を受けてきた。新得町の浜田正利町長は「そばの町として新得のブラントを守り続けたい。新得でそばを食べたら、おいしかったと感じてもらえるよう努めたい」とそばによるまちづくりの一層の取り組みを訴えている。
  • そば振興の取り組み町、農協、苦境期に生産者を支援し、ソバを守る農協、生産性向上を目指してソバを試験栽培「新得の特産品としてのそばを今後も守り続ける」。新得のそばが有名になるまでの道のりは平坦ではなかった。JA新得町の武田昌孝参事は過去の取り組みを振り返りながら将来への決意を語る。